2016年1月12日火曜日

寛容についてのメモ

Twitterで某氏のつぶやきを見て。いい加減な文明論もどき、文化論、印象論を。

我々の日本社会にはどうしても日本的なだらしない「寛容」はあっても、西洋近代的な痛みを伴う"tolerance"は存在しない。
それは例えば「日本人は多神教だからキリスト教にもイスラムにも寛容」という典型的言い回しに現れている。
この決まり文句には、異なる文化の存在、他者が存在することへの想像力が欠けている。
Toleranceには「他者」観念が不可欠だ。
我々の日本社会には他者が欠如している。

日本にはなぜ他者観念が、そしてtoleranceの思想が生まれなかったか。
あるいはなぜヨーロッパにはそれらが生まれたか、と問う。

カトリック・プロテスタント間の緊張による歴史的偶然というのが一つの答えだろうけど。
しかし事実として異なる集団との抗争を経験したのは一人西洋近代のみではない。
しかし他者を見出したのは彼らだけだった。何故か。

そこには、「隔絶した神」の観念に取り組んできた西洋の思想的風土・歴史が関わっていると見たい。神、他者。最終的な判断が神に委ねられるということ。
「誰が彼らの審判者となることができるか? 神のみ、と私は答える。何故ならば至高の為政者と人民との間の審判者となる者は地上には存在しないからである。」

翻って日本の思想史を見れば、というか、たぶん西洋以外の場所に「隔絶した神」を見出すことはできない(?)。
神仏は世界内的存在であり、現世を生きる我々との質的差異はない。
後略。後略。