2017年5月18日木曜日

5月18日の日記:「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」、『スプライトシュピーゲル』、SF

今日は「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」第5話「俺が妹の彼氏なわけがないし、俺の妹に彼氏がいるわけがない」と第6話「俺の妹が家に彼氏をつれてくるわけがない」を視聴。今回は思っていたより気分が乗らなかった。考えられる理由、(1)体調 (2)登場人物が嘘をつく話だったので。私は嘘をついている人やその嘘がバレそうになる場面を観ると強いストレスを味わう (3)ストレスを避けるために大幅に飛ばして観たから、ダイジェスト的な視聴になってしまった。
嘘や勘違いやすれ違いや思い込みでハラハラさせる作劇は私にとって好ましくない。(鑑賞できないフィクションが私には多い)
5話6話はシリアスな内容で、たぶん終盤の展開につながるフックになるんだろうなと思うので、ちゃんと見直したい。ストレスはあるけれど、一回視聴して話を理解してしまえば、「覚悟」ができるのでいくらかは耐えることができる(はず)。
第5話には加奈子が出てきたので嬉しかった。ひとりででかいパフェ食べてるのがかわいい。あと、第6話の沙織さん、京介氏のことで友達の輪が乱れることに本当はいらいらしてるだろうなと思ってドキドキした。

『テスタメントシュピーゲル』最終巻がなかなか出版されないので、『スプライトシュピーゲル』を1巻から読み始めた。今2巻。テスタメントの今と比べると、初期は小説としての印象が違うという感想。テスタメントになってからますます入り組んだ構築物になってきている。スプライト/オイレンシュピーゲル2巻がターニング・ポイントだったのかな。
小説としての印象が変わった、というのとたぶん同じ(あるいはそれにつながる)話だと思うのだけど、初期のころは非SFだったけど、テスタメントはSFだと思っている。(SF/非SFというのは、良い/悪いとか価値がある/ないではない)
この場合のSF性というのは、特定の科学技術・理論・現象のアイデアを中核にしてストーリーが展開するフィクション、というようなもの。たとえいわゆるSF的な空想上の科学技術が登場しても、その技術がストーリーの根幹にないとしたら、私の基準ではそのフィクションは厳密な意味でのSFではない。(たぶんSF者の世界でちゃんとしたSFの定義が共有されているのだろうけど、私はSF者ではないのでわかっていない。)
スプライト/オイレンシュピーゲル初期のころは、作中に登場する特甲児童や転送兵器や犠脳体兵器の概念は、それ自体は現実に存在しない空想上の科学技術ではあるけれど、それらとストーリーの結びつきが弱かったように思う(それらを現実の兵器と入れ替えても、同様の話が成立する余地があるかもしれない)。
テスタメントになってからはその点が一変した。特甲児童の技術の秘密と、特甲児童である人物たちのアイデンティティと、ストーリーの謎と困難の解決とが有機的に結びついて、一つになって進んでいる。このように技術とキャラクターと物語世界が一体となって表現されるのは、理想的なSFのありかただ。
もちろんSFとして理想的であることと、小説としてよいこととは別の話だし、面白いこととも一致しないけど、冲方丁の作品としてのシュピーゲル・シリーズは、理想的なSFであること(になったこと)と、さらによい小説、面白い小説になったこととが、同一というか、分かちがたいことであると思う。
そしてそういうSFとして/小説としてのよさが生まれたのは、さまざまな小説を書いてきた冲方丁の、小説家としての進化、自分の作品内の膨大なピースを組み立てる力の圧倒的な進化にこそ原因(?)があるんだろうなあと思う。
今までの全部が最終巻でどうエンディングを迎えるのかがたいへん楽しみです。