2017年6月2日金曜日

6月2日の日記:資料閲覧、〜のためには、テスタメントシュピーゲル最終巻7月1日発売

今日は暑い!と覚悟して出かけたのにそうでもなかった。どうして? 夏もう終わっちゃった?
昨日書いた、面倒な場所にある本を見に行った。とりあえず2冊参照する。すごく役に立ちそうな気もするし、そうではない気もする。時間があまりなかったので、とりあえず目次と、これはと思った箇所をメモして、今日のところは立ち去る。来週の水曜?か木曜ならもう少し時間をかけられるはず。

授業に出た。面白かった。

往復の電車の中ではTwitterばかり観ていて、勉強もしなかったし、読書もしなかった。

帰宅後に「劇場版 Free!-Timeless Medley- 約束」の予告を観た。明朝体の「蘇る、あの日の幻影」ってテロップに動揺。

正しい用法なのに個人的に違和感がある日本語の話。
「(人名)にとっては」の意味で「(人名)のためには」という表現をする例を、森鷗外の『渋江抽斎』で読んで、不思議に思っていた。「抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である」みたいなやつ。なんだかへんな感じがする。
書いたのが鷗外だから、てっきりドイツ語の語法を日本語に置き換えて使っているのだと思っていた。のだけど、今日たまたま明治以前の日本語の文章でこの「ためには」の用例を発見して、普通に昔からある表現だったんだ、と驚いた。
「ため(為)」を『大辞林』(三省堂、1988年)で引くと、3番目の用法として「ある物事に関することを表す。…にとって。…に関して。『君の—よくない』『彼の—には育ての親に当たる人』」とあるし、辞書にも掲載されてる完全に普通の言葉遣いらしい。なんで知らなかったんだろう。だけど、これを知ってもなお、「ため」という言葉はどうしても「役に立つ、利益になる」という意味に思えて、「について」という意味とは思えない。
こういう言葉は他にもあって、受動文などの動作の主体をあらわす格助辞(詞)カラにどうしてもなじめなくて、文章や会話でそれに行き当たると、そこは〜ニであるべきじゃないかとおもってしまう。でも同じく大辞林で調べると、「から」の5番目の用法として「動作・作用の出どころを表す。『君—聞いた話』『おやじ—おこられた』」とあって、「に」の7番目の用法「動作・作用の起こるみなもとを表す。『人—ぶたれる』『盗人—金をとられる』」と同じ意味だ。それはわかっているんだけど、なぜか私には〜カラというのは動作の主体というより、場所をあらわす助辞のように思えるんですよね。「駅から5分」みたいに。
なぜだろう。

夕食に餃子を食べた。餃子は好き。栃木県民なので(関係ない)。
その後にタモリ倶楽部を観る。早稲田大学の学生が作った役に立たない機械。

テスタメントシュピーゲル3下 (最終巻)の発売日が決まったらしくて楽しみ。今年の7月1日。
冲方丁は「最後のライトノベル」と言ってるらしいけど、そんなこと言わずまた書いてよと思ってる。今はやめるつもりでも、大江健三郎だって何度も(?)断筆してるんだし、冲方丁もそのうちまたライトノベルを書き始めるかもしれない。